「ヒューマンスケール」という言葉がある。
人間工学的に、適切な大きさを意味するのだが、建築、特に大規模開発などの大掛かりなプロジェクトなどでは、時として、このヒューマンスケールを逸脱した建築が、突如現れたりすることがある。
先般より話題(?)を集めている、新国立競技場の設計案、そう、流れるようなラインの、今にも鳥が飛び立とうとでもするかのような、美しいフォルム。
これは、英国で活躍する建築家でイラン人のザハ・ハディト女史の案。
確かに、パースに映えるデザインは美しい。
が、今この案が、実際に実現可能かどうか、議論を醸し出している。
当初の建設費予算1300億円を遥かに超える3000億にも達する見込み(冗談にも笑えんわ・・)なのは無論、あまりに巨大すぎて当該敷地にそぐわないと、槙さんを筆頭に34人の建築家、そしてJIAや東京建築士会なども後援し、この案の問題提起、見直しを求めている。
槙さん(やに馴れ馴れしいワタシ)は、現在の国立競技場に隣接する東京体育館を設計した人でございます。ココだけの話、どう見てもあのファサードは「カブトガニ」。何ともイカメしい面構えです。
話が横にそれましたが、槙さん(友達?)曰く、そのボリューム感に驚愕したという。
神宮外苑の一帯は、風致地区にも指定されており、都心でありながら緑豊かな場所。
そこに、敷地一杯に巨大建造物ができると、周囲の景観を破壊し、近くを通る人々は、圧迫感を感じるだろう、と。
時に、建造物はモニュメントにもなり得るものであるから、ヒューマンスケールを逸脱することが全て悪いというわけではない。
エジプトのピラミッドだって、まともに考えれば、無駄以外の何ものでもない、巨大な王様の墓なワケですけれど、あれはあれでモニュメントですから、ヒューマンスケールがどうこう、関係ない話。
一方こうした施設は、まあモニュメント的な意味合いもあるっちゃーあるけれど、それでもやはり大勢の人々が「利用して」価値がでるもの。
その場所に、人が集い、繰り返し使われ、そしてその場所での記憶とともに建築も人の記憶に刻まれるものだと思うのであります。
実は、この案が選ばれた際には賛否両論あったそうですが、そもそものコンペにかなり偏った選考基準があったというのも事実でして、プリツカー賞やら何やら世界レベルの賞5つを全て受賞した者でないと応募できないとか、それはそれは幅の狭いコンペでございました。
ある人に言わせると、こうした条件を付けられれば、必然的に応募者は決まってくるわけでして、公開と言いながら、ほぼ指名コンペみたいなものだ、と漏らしていらっしゃる大先生方もおりました。
当の槙さんも、この案自体がダメというわけではなく、審査において、街区全体的に捉える視点が掛けていたのでは?と指摘する。
さてさて、五輪に向けてのメインスタジアムの行方、どうなることやら。。
でもね、いろいろ言う人もいますが、一人の日本人として、オリンピックがココ東京で開催されることは、素直に嬉しいのでありまして、ならば、それを支える建築も街も、世界中の人に愛されるものであって欲しいと、いと慎ましく願うわけでゴザイマス。