富岡製糸場の世界遺産登録から語られるべきもの

 

富岡製糸場が世界遺産登録の候補に上がっていると聞いて、あー、あれね、でもなんで?

ぐらいにしか感じなかった白状無知なワタクシをココに晒しましょう。

自慢じゃないが、歴史という歴史については、ちーっとも勉強しなかった、ならず者でございまして、蒋介石って誰?と知人に尋ねた時は、さすがに大丈夫?と心配されました。ハイ。

 

んで、富岡製糸場ときいて、「ああ野麦峠」を思い出したわけですけれども、もう何年前になるでしょう、大竹しのぶさんが主役の工女を演じておりました。

「ああ野麦峠」は信州諏訪が舞台ですけれども、富岡製糸場は名の通り群馬の富岡。

開国直後の日本の主要輸出品であった生糸の生産性と品質向上のためフランスの技術を導入し、明治政府によって作られた官営工場(でした)。

800px-富岡製糸場・繰糸場

フランス技術者によって器械生産の製糸技術が富岡の工女に伝授され、全国的に広まっていったとされている。

とはいうものの、初めはあまり工女が集まらなかったらしい。

不思議なんですが、「女性」なんですよね、実労働の担い手が。なんで男性はいなかったのだろう?と素朴な疑問を抱くのですけど、単純な軽作業だから女性がやるべき仕事と決められていたんでしょうか?

 

官営時代は、それなりに工女の待遇も、労働環境も整えられていたそうです。一日8時間、週休一日、食費、寮費、医療費は工場持ち。しかしながら経営不振が続き、民間に払い下げ。

その頃から、彼女達の労働環境は著しく悪化を始め、いまでいうブラックと化する。

衛生状態は悪く、一日12~14時間働き詰め。富国強兵の国策の下、こうした労働環境が蔓延していたそうな。

 

同じような光景が、今、バングラディシュなどの途上国における縫製工場で見られるわけですけれども、やはり、主労力は女性(というか少女)。農村部から出稼ぎに出てきて、一家を支える大黒柱を彼女らが担っている。いま、バングラディシュはものすごい成長を見せています。

 

こう見ると、日本がまだ脆弱で貧しかった頃、ただひたすらに繭から糸を紡ぐ少女達の懸命な労働の集積が、富国日本へと導いたと言っても過言ではないでしょう。

 

富岡製糸場は1872年(明治5年)開業、1987年に(昭和62年)に操業停止するまで、実に一世紀を超える間、様々な苦境を経て日本の近代化産業の礎を築いてきた。

木骨レンガ作りの遺構は、保存状態も良く、今では観光名所となっていますけれども、富岡製糸場そのものが遺産というよりも、もっと、広い視点での遺産なのだと思う。

技術の国際的な交流によって近代化産業が発達していったこと、そしてそこには、それを支えた工女たちの辛苦と犠牲があったのだということ、我々日本人が一番理解せんとな。(オマエじゃ!…っていわないで)

世界的な評価をされるならば、そこなんでしょうな。たぶん。

 

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