なんともアイロニカルな事態と言わざるをえない。
行き場を失い、閉塞感にとらわれた人々は、ユートピアを目指し、シリア・イスラム国に入国する。
一方、住民は、戦火と迫害から逃れるため、安息の地を求めてヨーロッパへと流れる。
迫害を受けた人間が、また、迫害を繰り返す。
ルート情報が、彼らの間に知れ渡るようになったのかどうか理由は定かでないが、ここに来て、急速に大量の難民がヨーロッパに押し寄せているという。
ここにいても、死を待つだけ。ならばイチかバチか、危険を承知で海を渡る。
避難の途で命を落とす悲しい報道とともに、安息の地に着いた人々の表情に、一人の日本人外交官が脳裏に浮かぶ。
バルト3国の一つ、リトアニア。
1939年、杉原千畝氏は、この国の日本領事として着任する。
第二次世界大戦で世界が緊迫し、各国の大使館・領事館が閉鎖を余儀なくされると、ナチスの迫害から逃れるユダヤ人が日本領事館に殺到した。
ドイツ軍の進撃が迫る中、彼らの逃げる道はシベリアを経て、極東に向かうルートしか残されていなかった。
生命の危機に直面するユダヤ人。
それに対し、行先国の入国許可書のないものには、通行ビザを発給するべからず、とする外務省。
板挟みにあった、杉原領事は、本国の訓令に背き、条件を満たしていないユダヤ人に対してもビザを発給する。
「令に背けば自分はどうなるかわからない、けれど、人道上、どうしても拒否できない」
そう言って、彼はユダヤ人難民にビザを発給し続けた。
後、この事実のために、彼は退官させられるのだが、帰国後、多くの中傷、敵意、冷淡な扱いを受ける中、これまた皮肉にも、こうした扱いに抗議したのはドイツ人のジャーナリストだった。
その後、河野外務大臣は杉原氏の行為に敬意を表し、名誉を回復したが、日本よりもむしろ世界各地で、彼の名は知れ渡っている。
難民の受け入れは、単純な話ではない。
人道的に考えて、危機に瀕した命を救うことは、至極当たり前のこと。
とはいえ、生活基盤も何もない大量の人々が押し寄せることは、国の機能が麻痺し、国民の生活を圧迫し、安全性をも脅かすリスクも孕んでいる。
(実際、アンチ難民と呼ばれる集団によって、各所で暴力行為も頻発している)
当たり前の話だが、一国だけで対処できる問題ではなく、世界各国が一丸になって取り組むべき問題であるのは承知のこと。
確かに、難しい。
かつての杉原氏も、苦悩の末に発給を決意したように、諸々の問題を考えれば、そう、やすやすとペンを取ることもできなかったと想像する。
が、たった一枚の紙きれが、人の生死を分かつと思うと、虚しさをも覚えてしまう。
杉原氏のとった勇気が、一国でも多く集まれば、きっと世界の流れは変わると思う。
理想論かもしれない。
けど理想を語らずして、実現もないって、思うのでアリマス。