慰霊碑の向こう側

 

ざわついた1週間が終わりました。

いや、はや、駅周辺、そこいら、警官がウロウロウロウロ。

東京ウロウロしてても意味なくない??と横目に一瞥してソソクサと過ぎるワタクシ。

サミット開催地の伊勢志摩も、オバマさんが訪問した広島も、ワタクシにとっては、両地ともすごく馴染みの深い場所でして、しばし望郷の思いにふけりました。

 

えー、ワタクシ生まれは鳥取、育ちは岡山。

実家を出て三重で学生時代を過ごし、そんでもって東京さ行くべって早20年。はえ~

広島には親戚も何人かおりましたので、原爆ドームも平和記念公園も子供の時分に行きましたよ。

まあ、鼻水垂らしてた子供の頃ですから、特別な思いも感じなかったのですけど、ただ、ものすごい恐怖を感じた記憶が残っております。はっきりと覚えていないんですけどね、あの資料館を出るとき、なんかこう、ずしっと思いものが刺さったような感じ。

何に対する恐怖なのか、幼い子供心にはわからなかったんだけど、確かに怖かった。

 

この平和記念公園は、戦後の日本を代表する巨匠とも言われている故丹下健三氏の考案によるもの。

1949年のコンペで丹下案が採用された。

今回、オバマさんが献花された慰霊碑。

その慰霊碑を通して、原爆ドームが見える。

800px-HiroshimaPeacePark050109

これは、偶然ではなく、丹下氏が意図したものである。

 

ワタクシ、今まで知らなかったんですけど、この原爆ドーム、戦後復興が進む中で取り壊しの声が多数上がっていたらしい。短期的には何の役にも立たない、悲惨な記憶を思い起こさせる、そうした中で、いつ壊されてもおかしくなかったようです。

 

が、丹下氏は違った。

このドームは残すべきだと。

平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。

平和を「創り出す」建設的な意味を持たせるため、平和記念公園と原爆ドームは一体として考えるべきだ、彼はそう考えた。

 

戦後71年。

「我々は過去から学んだのだろうか。」

この地を訪れた、ウルグアイ元大統領ムヒカ氏が残した言葉。

 

核の残虐さを、これでもか、と目の当たりにしながらも、それでも世界は、

核の脅威を盾に、核の威力で持ってバランスを保ち、戦争の抑止力というベールに包んで、その存在を正当化する。

 

丹下氏が込めた思いは、果たしてそうだったのだろうか。

平和は自ら創り出すものだとし、多くの批判を受けながらも原爆ドームを残し、この記念公園を「平和を創り出す工場」と考えた彼の思いは、決して人類を破壊する核開発工場ではなかったはず。

と同時に、言うまでもなく、日本が被爆国でこんなにも被害を受けたんだぞ、ということを世界に知らしめるためのものでもない。

 

我々が求めるべきは、謝罪の言葉でも何でもない。

悲しみや憎しみを超えた「向こう側」に、到達すること。

そう、平和とは、自ら行動し、自ら創り出すもの。

そのとき初めて、心は癒され、安らかな幸せを感じるのだと思う。

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