南米ペルーの首都リマから80キロほど離れた郊外ワラル。
そこには、日本のODAで建設された野菜栽培研究センターがある。
1991年7月12日の早朝。
日本から派遣された野菜栽培技術の専門家3人は、現地のカウンターパート(同僚)とともに職場であるそのセンターに向かった。
が、そこには、すでに彼らを待ち構えている者がいた。
テロリストだった。
テロリストらは、ペルー人職員たちをセンターの建物内に入れ、日本人技術者3人を建物の前に追い立て、引き据えた。
そして、次々と射殺した。
一説には、そんな生易しいものではない、との話もある。
頭蓋骨が陥没し、小鼻は両方とも裂けていたというから、
散々に暴力を受け、痛めつけられた上に、頭を銃で撃たれて、とどめを刺されたとも言われている。
テロリストらは、反政府ゲリラ組織「センデロ・ルミノソ」の犯行とされている。
しかし、一方で、フジモリ政権に反発する旧勢力の政府高官が自らのボディガードを使ってテロリストの犯行と見せかけ、フジモリ政権に打撃を与える狙いで行ったとの見方もある。
当時のフジモリ大統領は、旧体制を打破し、反政府テロ組織などの取り締まりにも力を入れていた。
旧勢力の要人たちは、次第に肩身の狭くなる身を案じ、フジモリ政権と、それに続く日本社会に一撃を喰らわせようと、あえて日本人技術者を狙い撃ちしたとされる。その証拠に、センターにいたペルー人職員は、皆解放している。
だが、真相はわからない。
公には、テロリストの犯罪とされ、13人のテロリストたちのほとんどは、すでに刑期を終え出獄し、主犯格の3人も、あと数年で全員出獄することになっているらしいが。
先般のバングラディシュ、ダッカでの痛ましいテロ事件で、不意に、このペルー事件が思い出された。
任地国の発展のために汗を流す彼らの志とは裏腹に、犯行の目的は違えど、日本人技術者たちの命は無残にも奪われた。
なぜ。
問うても答えにならない虚しさだけがこだまする。
世界中の人々が、幸せに豊かに安全に暮らせるために、互いに協力し合い、助け合う。
その精神は、何も我々の持つ技術や知識を押し売りするのではなく、彼らのニーズや生活スタイルに合わせて取り入れ、彼ら自身で考えて行動できるように、二人三脚で共に歩んでいくことにある。
そういう意味では、単に資金や物資を与えるだけの援助ではない、より現地の人たちと密接に繋がる仕事といえるだろう。
だが、不幸にも、現地の一部には、それを良しとしない反感があったり、また、今回のように、もっと広義な排他的思考からくる「よそ者」として抹殺されてしまう。
今や、世界中のどこにいても、テロの危険はあるのであって、そもそも、あえて危険を冒してまで協力すること自体、バカバカしい、そんなことやめてしまえばいい、そう思うのも無理はない。
しかし。
共生の精神なくして、平和などありえない。
というのがワタクシの持論。
もちろん、自らの生命がいちばん大事。明らかに危険とわかっているところに、敢えて出向く必要ははないけれど、危機管理や現地情報の収集もせず、闇雲に日本の外は危険だからといって、じっとしてて、果たして状況はよくなるのだろうか。いや、もっと危険になる。
お互いの価値観を互いに認め合い、異なる民族、異国人どうしが共に生きていくには、そうそう短期間で、絆が生まれれるものではない。
けど、何もしなければ、永遠と分かり合えることもない。
長い時間はかかるけど、そうして積み上げたお互いの感情が、技術協力の信頼へとつながる。
技術も信頼なのです。
ワタクシそう信じています。
だから、歩みを止めないでほしい。
同朋を亡くした悔しさは、きっとみんな同じだと思う。
けれど、それを乗り越えて歩んでいくことが、きっと亡くなられた技術者たちが、望むことではないのかと思うのです。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。