歳のせいか、精神的な疲れのせいか、このところ無性にクラシック音楽を聴きたい衝動にかられる。
別に、クラシック通でもなく、音楽に詳しいわけでもなく、むしろ普段は音楽とは無縁、というかほとんど聴かない。
考えてみれば、何とも殺伐とした毎日を送っている。
音楽とのつながりは、強いて言えば、小学生の頃習ってたピアノと、高校時代の吹奏楽くらい。
ピアノは、結構真面目にやってて、「エリーゼのために」とかスラスラ~って弾いてたよ。(ヘヘヘ、チョット自慢)
んが、今じゃ、全くあきまへんわ。譜面すら読めんくなってもうた。
そんな、音楽と無縁のワタクシになってしまったのだけれど、しかし、何故だかわからないが、数ヶ月前くらいから無性に聴きたくなった。
やー、それにしても便利な時代になったもんだ。
音とか作品とか、特別にこだわらなければ、YouTubeで手軽に聴くことができるこのご時世。
ありがたや。ありがたや。
モヤモヤした気持ちが不思議と落ち着いていくのがわかる。
例えて言うなら、頭痛い時にバファリン飲んで痛みがスーッと引いていく感覚。それに似てる。
文字通り、流し聴きをしながら、ふと、思った。
ショパンにしても、バッハにしても、モーツァルトにしても、今から数百年も前の人たちで、ワタクシなんぞ、影も形もない時代に、はるか遠い異国の地で、これらのメロディが生まれた。
そして、今、数百年も経った今、何マイルと離れたここ日本で同じメロディを聴いている。
生演奏ではないにしても、流れるメロディは、華やかな衣装に身を包んだ貴族に囲まれて、鍵盤を弾く彼らの指が奏でるそれと同じ。
当たり前っちゃー、当たり前かもしれないが、でも考えてみると、すごいことだと思う。
耳の聴こえなくなったベートベンが指揮をするオーケストラの演奏に、スタンディングオベーションで喝采を送った当時の観客たちが味わった感動と、同じ感動を、その五線紙に書かれた一つ一つの音符が、時代を越えて今の私たちに与えてくれる。
あの、おたまじゃくしの形をした記号は、もしかすると究極の世界共通言語なんじゃないか、とさえ思えるのでアリマス。
同じように、技術屋は設計図でもってモノを作る。
世界各地で多少の違いはあれど、描かれた線と線の組み合わせで形ができることに、変わりはない。
一つの場所に形あるものとして生み出される建築は、二つとして同じものはないけれど、時に時代を越えて人に感動を与えてくれることがある。
それは、窓から差し込む光であったり、建物の陰影が織りなす景色であったり、いつか見た風景を思い起こさせるような、何気ないものかもしれない。
振り返るに、これまで関わってきた建築のいくつが、100年後も200年後も変わらず、感動を与え続けるものなのか。
もう、その頃にはこの世にいないワタクシには知る由もないことだが。
直接設計をすることは、もうないかもしれないけれど、もし、何かに関わることができたなら、時代を越えて変わらぬ感動を与える、そんなモノを残していきたいと思う。