戦争が残したものー両陛下フィリピンご訪問に思う

 

昨年春、生まれて初めてマイレージなるものを使った。

飛行機好きのワタクシにとっては、タダで乗れるなんて夢みたいなことだ。

行きたい場所はたくさんあれど、手持ちのマイルで行けるのはごく近場しかない。

ということでフィリピンへ。

 

若い。行き交う人々、電車に乗り合わせる人々、道端で遊ぶ子供たち。

話には聞いていたが、日本の高齢化社会に比べ、目を見張るほどの若々しさに溢れた国というのが第一印象だった。

 

改めて言うまでもないが、戦争とは、悲しみ以外何も残さない、これほど馬鹿げた愚かなものはない。

先の大戦で、このフィリピンも日本軍が占領し激戦の地となった。

マニラやセブの街には、日本軍の本拠地となった砦跡が今も残る。

マニラ サンチャゴ要塞
マニラ サンチャゴ要塞

 

数日前、両陛下がフィリピンをご訪問された。

慰霊に訪れた両陛下を前に、泣き崩れる者。

フィリピン残留日本人と呼ばれる人たちだった。

無国籍の状態で、現地に「放置」されている日系2世たち。

 

実はワタクシ、今回初めて知ったのだが、「無国籍」残留日本人が、他のアジアの国に比べて、フィリピンに多く存在するという。

フィリピンには、戦前より日本からの移民が多く、日本人社会なるものができていたらしい。

日本軍がフィリピンを占領後、彼らは日本軍の兵として抗日ゲリラなど現地人の摘発を担うようになった。

そこから、現地人と日系人との間に敵対の溝が生まれる。

戦後、日本の敗戦ととも日本軍は強制送還となり、移民の多くも引き揚げ船に乗り込む。

日本人を夫に持つフィリピン人の妻、子供たちは、一緒に帰国できた者もいたが、その多くは、戦後の混乱の中で、生き別れになり、そのまま現地に残された。

戦後の反日感情が渦巻く中、現地人からの報復を恐れ、彼らは社会から逃げるように生きるしかなかった。彼らは日本人との婚姻証明、父親が日本人である証拠となるものをことごとく捨てた。

当時のフィリピンでは、父系優先血統とされていたため、父親が日本人の場合は日本人とされる。

こうして、戦後彼らは現地で生きていくために、日本人という身分を捨てざるを得なかったのである。

 

フィリピンとの国交が正常化し60年。

日本国籍を取得するには、日本人であるという証拠を提出せよという、裁判所の手続きを前に、彼らの望みは打ちひしがれる。

生きていくために、身分を隠さざるを得なかった彼らにとって、なんとも酷な要求である。

中国やインドネシアなど、他のアジア諸国にも残留日本人が存在したが、両政府間での手続きや措置がとられ、今ではほぼ問題は終焉したようであるが、なぜかフィリピンでは、解決に至っていない。

 

今回の両陛下のご訪問をきっかけとして、実はもう一つ、初めて知った事実があった。

国交が正常化する前の1953年、故キリノ元大統領は、当時フィリピンの刑務所に収容されていた100人を超える日本人戦犯全員を釈放させたという。

「人間として癒しが始まるには許しが必要だ、と祖父は考えたのでしょう」と両陛下に語るキリノ元大統領の孫の目にも涙が溢れていた。

 

ふと、今日が、後藤さんが殺害されたとされる一周忌だと気づく。

未だに、湯川さんと後藤さんは、何故に命を落とさなければならなかったのだろうかと思う時がある。

彼らの自己責任だとする声もあるが、自分はそうは思わない。

戦争にしても、テロ行為にしても、そのような社会を作りだしてしまった我々人間の愚である。

憎しみに、憎しみでもって返せば憎しみしか生まれない。

心を癒してくれるのは、許しの心なのかもしれないと、元大統領のお孫さんの言葉がしみる。

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