イタリア中部トスカーナ地方に位置する町、アッシジ。
小高い丘の斜面に沿って築かれた集落だが、フランシスコ会創設者である聖フランチェスコの出身地として多くの巡礼者が訪れる。
1997年9月、この町を巨大地震が襲った。
町は多大な被害を受け、聖フランチェスコを祀ったサン・フランチェスコ教会の天井も一部崩落した。
この町を訪れたのは、いつのことだったか、確かこの地震の数年後だと記憶している。
市街から5㎞ほど離れた鉄道駅に降り立ち、バスで中心地まで行き、小さなホテルに一泊する。
朝方、教会の周りの斜面地には霧が立ち込め、何とも神秘的な光景を目にしたのを、今でも鮮明に覚えている。
地震の後だったとぼんやり覚えているのは、ホテルの主人が、朝食の時に、泊まり客に当時の様子を話していたから。
ワタクシ以外に、女性二人組がダイニングにいたのだが、彼女らは熱心に主人の話に聞き入っていた。むろん、イタリア語なので、ワタクシにはさっぱり?でしたけれども、何となく地震の時の話をしていることは伝わってきた。相当な被害だったようである。
先週のイタリア中部地震のニュースを受けて、不意に昔の記憶が蘇った。
死者数名という報道は、時間が経つにつれ、その数をどんどん膨らませていく。毎度のことであるが、それでも更新されるたびにショックは大きい。
周知のごとく、ヨーロッパの建築物は、大方が石造である。
一旦崩れると、その被害は計り知れなく甚大となることは、容易に想像がつく。
一般的に、ヨーロッパ大陸は地震が少ないから、石造建築が多く、日本は地震が多いから石造建築がないのだ、というのは、嘘ではないが、歴史的に見ると、もっと根本的な地政学的、文化的背景があることに気づく。
都市の形成を見ると明らかなように、ヨーロッパのそれは城郭都市。いつ異民族が侵入してくるかわからない、そんな危機と隣り合わせなわけだから、常に防衛を意識したまちづくりがなされる。
分厚く高い石の壁が町を取り囲み、人々はその中で暮らす。人口が増大すると、建物をどんどん上に伸ばし、都市は垂直方向に伸びていく。
一方、単一民族の日本においては、戦国武将の戦はあれど、いきなり異民族が不意をついて攻め入ることはない。したがって、江戸時代の城下町に見られるように、都市は水平方向に広がりを見せる。
もちろん、都市を取り囲む壁などもない。
ヨーロッパにしても日本にしても、古代の都市において、最も恐れられた災害は火災である。
城郭を形成する都市において、外郭から火を放たれれば逃げ場はない。また、密集した都市で一旦火の手が上がると、延焼により町全体が焼け落ちる。
これを危惧して、当時の皇帝たちは、建築物の耐火を徹底的に行った。
敵から火を放たれても焼け落ちないよう、また住民の失火によって、火災が起きても最小限に食い止めるよう、町全体の防火対策のため、建物の形状から使う材料に至るまで、細かく規制を設けた。
一方、日本においても、町はたびたび火災に見舞われる。江戸の町なんぞ、一体何回焼け落ちたことか。
しかし、当時の江戸幕府は、それに対する対策を一切とらなかった。
一度は藁葺き屋根を瓦葺に変えるよう推奨されたが、延焼して瓦が落下するとかえって危険だとか、よく分からない理屈で取り下げ、挙句に「火災は天災である」とか意味不明のことを言い出す始末である。
安泰の江戸時代においては、外敵の攻撃を恐れる心配はなく、むしろ、大名や庶民が財力をつけることを恐れていたため、彼らに倹約を勧め、建物や都市のインフラにお金をかけることもなく、彼らの生活が向上するような施策はとられなかったのである。
ただただ、江戸幕府の安泰を願っていた。
こうした歴史的、地政学的背景が都市の形成に少なからず影響を与え、それが今に続く。
言うまでもなく、土地の風土に最も大きく左右されるものではあるけれど。
明治以降、日本は大きく姿を変えました。
また文明の発達によって、生活もずいぶん変わりました。
同時に度重なる災害も経験してきました。
火災、地震、様々な災害が私達の生活を襲う。
自然災害にしても人的災害にしても、それらを教訓として進歩することが、いつの時代も大事なことだと、ワタクシ思います。
今回発生した震源地からほぼ同距離にある町で、かたや、ほぼ壊滅の町と、かたや、ほぼ無傷の町。
イタリア中部は、過去幾度と大地震に見舞われてきているが、それを教訓に耐震対策を進めてきた町とそうでないところ。
100%はないかもしれないが、それでも助かった命はあったと思うと、悲しすぎる。
列車に揺れながら、小さな町を転々と旅した記憶とともに、美しい空の色と静かに佇む町の景色が蘇る。
もう一度、あの景色に出会いたいと思う。
お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りします。