愛着という言葉がある。
広辞苑では、「人や物への思いを断ち切れないこと」とある。
話は飛ぶが、日本ではゴミを捨てるのさえお金がかかる。
粗大ゴミはもちろんのこと、私が住んでいる地域では、日常のゴミでさえ有料なのだ。
引っ越してきたばかりのときは、実に驚いた。
最近はリサイクルという考えも浸透し、あらゆるプロダクトで中古品販売が行われている。が、しかし日本人の価値観なのか、チョットした傷や汚れ、色あせなどがあると、もう価値は低い。こりゃだめだ、となってしまう。
一方、東南アジアのリサイクルショップでは、文句なしで日本製が抜群の人気。
大型家具など、あちこち傷がついていたり、ステッカーなどが貼られたりしていても、引き出しや扉の開閉動作に何ら問題はなく、機能性で見れば新品と変わりはない商品がこぞって売れる。
日本では、それこそ粗大ゴミとなってしまうようなものなのだが。
日本製品を求める彼らは、見た目の美しさだけでなく、高品質を生み出す日本の作り手に大きな信頼を寄せ、敬い、高い価値を感じているのだ。
それほどまでに敬意を持ってものを買うことがあるだろうか?とふと考えた。
壊れても直して、繰り返し繰り返し使おう、という気持ちを抱いてものを買うことがあるだろうか?
私は、よく物持ちがいいね、なんて言われることがあるけれど、単に貧乏性なだけだ。新しいものが難なく手に入るなら、迷わずそっちに浮気するサ。
ものづくりに対する敬意の喪失こそが、ものをゴミにするのではないか。
ジャーナリストの瀬戸義章氏は言う。
そうか、ものへの敬意の現れが、愛着という行為になるのだ。
ハッとさせられた瞬間だった。
ものづくりの立場にいながら、大事なことを忘れていた。
解体現場に出くわすたび、初めて見る建物であっても、妙に悲しい気持ちになることがある。
汗水流して作り上げた職人さんたちの魂と、そして建物を使っていた人々の日常の営みが、消し去られていくようで、とてもとてもセンチな気持ちになる。
(鉄の女サッチャーと言われても、まだ乙女心は残っとりますぜ。
乙女座だし!(ドヤ顔))
ものの後ろにある背景を知ることで、ものの持つ価値が変わることもある。
作り手は、使い手の顔を想像しながらものをつくる。
使い手は、作り手の顔を想像しながらものを使う。
きっとそこには、ものを介した人のつながりが生まれるような気がする。