涙腺が緩みそうになるのをこらえて、彼の心が綴られた文字を目で追った。
先週末の出来事らしいが、当日彼がTwitterで店名を挙げて批判したことが、炎上した模様。
で、謝罪と誤解を解く意図で綴られた彼のブログだ。
「乙武洋匡」
おそらく、彼の名前を知らない人はいないくらい、著名人である。
身体の障害を抱えながらもジャーナリストとして、また教育者として活躍し、自らの実体験を綴った『五体不満足』はベストセラーとなった。
この話を受けて、実は私自身、建築に携わるものとして、ちくりと心が痛んだ。
そう、バリアフリーだ。
日本では、建物をつくるときにはバリア(障害・障壁)をフリー(無くす)にすることが法律で定められている。通称バリアフリー法。
といっても制定されたのは最近(2006年)のことだ。
正式には「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律」。
車いす使用者でも、自由に建物に出入りできるように、スロープを付けたり、通路幅を広くしたり、エレベーターの設置や車いす使用者用のトイレを設置したり、と事細かに規定がある。
東京都では、このバリアフリー法に即して、さらに厳しい条例を設けている。
(ユルユル規制のバリアフリー法では、都心の実態にそぐわない)
昔、デベロッパーとして企画設計なんぞの仕事してたことあったんですが、正直、この法律がうっとうしいなーーと思うこと、幾多とありました。
要するに、スロープ付けたり、通路を広くとったり、車いす用のトイレや駐車場・・・まー実にスペース取られるんです。少しでも多く専有面積を取りたいと思うデベ側としては、モッタイナイって思ってしまうんです。
世の中の車いす使用者の方々、ゴメンナサイ。
「親の苦労、子知らず」じゃないけれど、実際自分がその立場にたってみないと相手の気持ちはわからない。
私は、有難いことに、何不自由なく動くことができる。
だから、彼らがどれほど不便さを感じているかを実感できずにいた。
たぶん今も、全てを理解できてはいないと思うし、本当の苦労を知らない。
でも。
彼らが、身体が不自由だからという理由で排他的扱いを受けるのは、オカシイ。
それは、完全な差別だ。人権の侵害だ。
彼らも、皆と同じように、いろんな場所に出かけ、おいしい物を食べ、美しいものをみて、楽しい時を過ごす権利がある。
人間の生活に密着に接する建物、このハード面で、彼らが不便を感じて出かけることを億劫に思ったり、躊躇するようなことがあれば、それはまさしく彼らを排除している。
彼はブログの中で、
「今まで何とかなってきたので、入店に際して自分が車いすであることを告げる必要性を感じなかった」と言っている。
たぶん、それは、彼の血のにじむような訓練があったから、たいがいのことはできてしまうからなのだと思うが、わざわざ告げなくとも普通に出入りできて当然なんですよね。そもそも。
ただ、困ったことに、法律ができて10年も経っていない日本。
古い建物だとバリアだらけだ。
いきなりエントランスで階段があったり、エレベーターのない狭小ビルなんてざらにある。
以前、ある設計士さんがこんなことを話してくれた。
彼は老人施設とか福祉施設などを専門に手がけている方だった。
「スウェーデンって、福祉国家と言われてますけどね、点字ブロックないんですよ。盲目の人たちが、点字ブロックのところだけしか歩けないって、オカシイでしょって考え方でね。目が見えなくても、自由に好きなとこ歩いていいんじゃないってことで、点字ブロックはないんです。」
この話を聞いて、当時とても驚いたものだった。
日本と考え方が真逆だったから。
確かに見方を変えれば、点字ブロックを敷くこと自体、特別扱いなのかもしれない。
盲目の人たちは、盲導犬を連れ、杖をうまく使いこなす。
そして、私たちより、格段聴覚に優れる。
彼らは自分の歩きたい場所を、時に寄り道をしながら、時に方向転換しながら、暑い日は木陰に入って信号待ちをすることだって、全て自由なのだ。
欧米などでも古い建物は、公共の駅舎でさえ、エレベーターのない建物なんてざらにある。でも、当然のこととして、皆が身障者に手を貸したり、高齢者の荷物を持ってあげたりする。
ハード面のバリアを取り払うことと同時に、
特別扱いはしない、でも困っていたら手を貸す
そういったソフト面の意識が、本当に自由で平等な社会を作っていくのではないか。
・・・なんて、久々に真面目に考えてみた。
(いえ、いつも真面目です!(キリッ))