1月のカトマンズは、寒い。
ヒマラヤの麓、標高1300mにある山岳都市。
日が昇ると、日中は太陽が間近にあるような感じで、ギラギラと素肌を直撃する。
が、日が沈むと、急激に冷え込む。
一日のうちの寒暖差が20℃近くにもなる。
アジア最貧国のうちのひとつとも言われているように、人々の暮らしぶりは貧しく、少し前までは、人身売買も裏社会では当たり前のように行われていた。(多分今もまだ、完全にはなくなっていないと思うが)
貧しい国では、日常的に行われていると言われれば、そうなん?で流されてしまうかもしれない。
かつて、日本でもそういう時代があったわけだし、でも、やっぱり親が自分の子どもを生活の糧のために売るということは、尋常ではない。
5年ほど前の冬のカトマンズ、都市部では唐突に市民デモが勃発し、市内が封鎖されたりするなど、貧しいだけでなく、政情的にも不安定な国だった。
道端に転がる大きな塊。ゴミかと思えばいきなり動いたのでぎょっとした。
人間だった。
それでも、国民はヒンズー教並びに仏教を尊び、街には多くの寺院がある。
寺院には多くの参拝者に混ざって、恵みを乞う人や、学校に行かず(というか行けない)子どもが無邪気に遊ぶ姿がある。
群れをなして遊ぶ子どもたちの笑顔は、世界共通、実にあどけなく、そこには邪心とか、人間の卑しい心とか、永遠に無縁のような瞳の輝きがある。
私のような異邦人に対しても何の抵抗なく、私のすぐ隣まできて、あどけなくキャッキャと戯れる。
ふと、目がいった先、男の子の小さなモノが、ヨレヨレの衣服から覗いていた。
あらら・・・と思いきや、後ろ姿は、プリプリのかわいいお尻が丸見え。
パンツ、はいていないんだ・・・。
上半身だけ、かろうじてという表現が正しいほどの衣服を身につけているのだが、多分、あどけなく笑う彼は、自分が下半身丸出しでいることに、羞恥心も感じていないのだろう。
いや、正確には下半身を晒すことが、恥ずかしいことだということすらを知らず、ただ無邪気にに走り回っている。
もう、5年も経つというのに、この衝撃的な光景を思い出したのは、近年成長が目覚ましいフィリピンにおいても、やはりパンツをはかない子どもが、道を歩いていたからだが、まあ、カトマンズと違って、年中暑いこの地方では、涼しくて快適なのかもしれない。なかには、上下一糸纏わず、文字通り生まれたままの姿で、道ばたに転がっていたりする。
近年、GDP7%近い成長を遂げているフィリピン。
都市部においては、高層ビルが雨後の筍のように出現している一方、未だ、バラック小屋も多く密集し、ゴミ山を漁り、お金になりそうなものを拾って生計を立てている者も未だ多くいる。
貧富の差は、確かに国が成長する過程においては、大なり小なり存在する。
貧富の差に付随して、人権という問題が浮上するのだが、これはなかなか一言で言い表せない難しさがある。人権とは何たるや、をここで語るつもりは毛頭ない。というかできっこない。
ただ、こうした子どもたちの姿を見るとね、例え羞恥心が芽生える前だとしても、人として一番恥ずかしい部分を隠すという、人としての扱いがなおざりにされているように感じてならない。
もちろん、彼らが自主的にパンツを脱いでいるわけではないでしょう。
決して彼らの両親を咎めているわけではない。もしかすると実の両親すらいないのかもしれないが、この世に生を授かった以上、人として生きる権利を生まれた時点で持っているはず。
たかだかパンツ一枚。
しかもまだ分別も分からない子どものパンツごとき、と言えばそうかもしれないが、何も分からない子どもたちだからこそ、そのなおざりな扱いが、痛々しく、残酷に見えてしまうのは私だけでしょうか。
もし、彼が大人になったとき、多分自身の幼少時の記憶など、すっかり忘れ去ってしまっているのだろうけど、いや、すっかり忘れてしまってほしいと思うけれど、彼らの人生が、幸せに満ちているものであることを願わずにはいられない。