そして、居場所を失った彼らは「ユートピア」を目指した

 

窓の外は雪。

雨が降るのと違って、本当に静かに静かに、その様子は「天から舞い落ちる」という表現がピタリと当てはまる。

窓から眺めているぶんには、優雅でロマンチックで、きれいだなあと思うけれど、味気ない大人になってしまった心の片隅に、積もると厄介だなと、ぼやく自分がいたりする。

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やることはタンとあるのに、どうも手に付かず、呆然と上の空状態なのは、脱力感というか、怒りや悲しみを超えた虚無感を感じているからかもしれない。

 

何故だろう。

自分でもよく分からないけれど、なぜか今回の事件については、妙に引っかかるものがあった。

初めて知った時から、何故か胸騒ぎが収まらず、もちろん彼らとは何の面識もないのだけれど、まるで古くからの友人か何かのように、かなり自分自身の精神状態が不安定になってしまった。

日曜日の朝、後藤さん殺害ニュースが目に飛び込んだ瞬間、頭のヒューズが飛んでしまい、その日、仕事でミスをしてしまうほどに動揺してしまった。

理由はわからない。

 

世間では、(案の定といいますか)政府の対応が悪いだの、自業自得だの、いろいろ騒いでいますけど、もう、どうでもよろしい。

誰かを責めたり、亡くなった人を罵って、元に戻るわけではあるまい。

「お前はバカだ」といって、彼らが戻ってくるのなら、何万回でも叫ぼう。

 

どうしてこれほど、精神状態をかき乱されるほど、気になってしまったのか、よく分からないけれど、そのことに自分でも少々驚いている。

で、「イスラム国」とは何なのかをちゃんと知ろうと思いまして、いくつか文献を手にした。

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「イスラーム国の衝撃-文春新書-池内恵」

 

「イスラム国」がどうして出現したのか、どういう組織なのか、もちろん実体を調査できるわけではないので、ここに書かれてあることが全てではないかもしれないけれど、しかし、実体を知らないことには、いくら「テロ対策」だと叫んでも、全く意味のないものになる。

 

非常にシンプルな、しかし、彼らのある意味独断解釈による「イスラム法学」に基づいてのみ結束している集団ゆえに、明確な指揮系統もなく、よって、思想を共にした者が「教え」に忠実に、思想に反するとおぼしきことあらば、それぞれが勝手にテロなり殺害なり破壊なり、要するにこの世から抹消してしまう。

ただ、今までのアルカイダと違うのは、単に破壊が目的ではなく、自らの支配領域を築き「統治」すること。

従って「統治国」を築く明確な理念、彼らの独断解釈による、しかし、根本では他のイスラム教徒と同じイスラム法学に基づいた理念を持つ。

ここに、多くの人(特に若者たち)が賛同し、戦闘員として参画する。

参画する人たちは、現政権の弾圧を受けていたり、社会から迫害されていたり、要は、居場所のない、現状から逃れたいと願う人々なのである。

将来に夢も希望ももてない人々が、「イスラム国」という架空のユートピアを目指して集まるのである。

 

急激に勢力を拡大した背景には、イラクとシリアでの情勢不安ある。これらは、彼らには好都合条件だった。

中央政権による国家統一のコントロールがなされず、かつ、この情勢を安定化できないまま住民の弾圧を続け、中央政権に対する不満を募らせた人々が政権から離反していく。

「イスラム国」にとっては、拠点となる「場所」と「人員」を一挙両得に手に入れることができたわけである。

 

なぜこうした組織が出現し肥大化していったのか、を突き詰めていくと、一つに「無関心」にぶつかる。

イラクにしてもシリアにしても、内政の危機的な状況を、世界は見て見ぬふりをしてきた。

いや、わかっていたけれど、積極的に手を出さない方が国益のためだと、どこか及び腰で接していたといったほうがいいかもしれない。

日本も例外ではない。

 

外交上の問題を考えると難しい面もあろう。

しかし、「腫れ物には触れぬ」として、避けてきたツケが、全世界を脅かす脅威に膨れ上がっていると考えるべきではないのだろうか。

日本は関係ない、ではない、と私は思う。

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