平和ボケと差別が生む諸悪

 

未だ解決の糸口が見いだせないまま、人命がまるで将棋の駒のように弄ばれていることに、苛立ちと憤りを感じつつ、今は無事を祈るばかりであります。

前回のエントリーで、恐縮ながらつらつらと思うままに書かせて頂きましたが、同じような主旨の記事をいくつか拝見し、もう少し触れてみたいと思います。

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戦争や犯罪、暴力など、社会通念上、「悪」とされるものは、突如として現れるわけではなく、それまでの歴史や社会的背景が必ずあるのだ、ということを前回書きました。

人間という生き物は、(他の動物はどうなのかよく分かりませんが)本能的に他人よりも優位な立場に立とうとする習性があって、またそうすることで、自己防衛をしていると言われています。

故に、おのずと他人を差別し、勝手な偏見によって他人を見下すような行為を、意図せずともやってしまっている。

結果、集団から疎外された一部は孤立し、分断されていく。

これまでの戦争や犯罪、諸々の事件の背景には、どこかに、こうした孤立した組織または個人の爆発的な感情があると思うのです。

 

戦後、日本は米国の主導によって民主主義社会を築いてきたわけですが、(表向き)平和な国を築き上げてきた一方で、知らず知らず(いや、意図的にかもしれないが)国際社会の中で、右にならえのごとく何かを疎外し、孤立化させていくことの一端を担いでいたことは否定できない。

従って、日本が狙われたって何ら不思議でも何でもないわけだ。

 

差別、格差、偏見などによって孤立化させないこと、これ世界の平和に必要なことではないかと、つくづく、そう思う次第であります。

今回の事件で、渡航規制をもっと強化すべきだ、とか言ってた平和ボケ政治家の方がいらっしゃいましたけど、日本にいれば安全とでも思っていらっしゃるのでしょうか?

それとも、江戸時代に戻るおつもりでしょうか?

分断してどうするよ。

お互いを理解し合う気持ちなくして、どうして平和を築けますか?

 

そうそう、平和ボケといえば、トイレのお話でナルホドと思ったことがあります。

男性の方は、あまりピンとこないかもしれませんが、女性用の個室って、海外にいくと、ドアが中途半端に下が空いているんです。30センチくらい。

慣れないと、なんか妙にソワソワ、用を足していても落ち着かないんですね。

ある日本のジャーナリストさんが、これについて、ニューヨークの友人に理由を尋ねたところ、完全に扉で隠されていたら、中でレイプが起きても分からないじゃないかと。

つまり、中で犯罪が起きていないか、外から分かるように、わざと人の足が見えるようにしているのだとか。

 

いや、恥ずかしながら、ワタクシ今まで知りませんでした。

海外の職人は、仕事ザツだから、扉もテキトーに付けているもんだと。

日本の個室では、外から中にいる人は完全に見えません。しかも用を足す音が聞こえないように「音姫(ボタンを押すと水が流れる電子音が鳴る)」なんぞも設置されていまして、「完璧に」中の状態がわからないようにしてあるのが日本のトイレ。

そう考えると確かに怖い・・・。

 

平和な日本が好きです。

でも、その平和のぬるま湯にどっぷり浸かっている自分に、危機感を感じる時があります。

平和な中にいて、知らず知らず、勝手な先入観で異国の世界に偏見を持っているんじゃないかと。

平和ボケした自分が、トイレ事情を知って驚いたように、「無意識に」他人を差別しているんじゃないかと。

そう考えると、鳥肌がたってきました。

 

いろいろ考えさせられることの多い今回の事件ですが、繰り返し、皆の無事を願わずにはいられません。

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