宗教と文化と言葉と心

 

言うまでもなく、ワタクシ、日本に生まれ日本で育ったフツーの日本人ですから、無宗教。

日常の生活で宗教に触れることなぞほとんどなく、せいぜいお葬式にお経を読んで「今だけ仏教」を演じ、次の日には、ケロリと忘れる。

それが、極自然で、当たり前で、他国の厳しい宗教規律を見るにつれ、無宗教であることはなんて身軽でいいものなのだろう、とさえ思っていた。

 

いや、ここで無宗教を批判するつもりはない。

宗教を持っていようがいまいが、それはその国の文化であるから、批判すべき、またされるべきでもない。

そう、文化なのだ。

 

実は最近、そのことに今更ながらというか、改めて気づいたのでアリマス。

我々が、普段何気に話している言葉、まあ、これも文化の一種と言えますが、その言葉の起源に、この宗教の考えが深く浸透している。

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考えてみれば、言語なんて、今から何千年も前からこの世に存在していたわけだから、現代よりももっと宗教が日常生活に密接に結びついていた古代では、口にする言葉も自然と宗教に根ざしたものになることは不思議ではないかもしれない。

 

例えば、英語の「gifted」という単語。

これは「才能のある」とか「才能豊かな」って意味ですけど、ルーツは「gift」=「贈り物」。

で、神様から与えられた「gift」だから「才能」となるそうな。

まさに、神の絶対的信仰が表れたキリスト教の言葉だ。

 

こうした発想は、日本語にはない。

たまに気取って、天性の才能なんて言うこともあるけれど、その言葉にあるのは、もともと生まれ持ったという意味であって、神様から授かったという信仰の意図はない。

一方、日本語には、(ちょっと宗教とは離れるが)昔から何でもモノを数える習慣があったので、数を表す表現が豊かなそうな。

例えば、○個、○本、○枚、○匹、○棟、○册・・・・数えりゃきりがない。

こんなに種類豊富な表現を持っているのは、日本語くらいじゃないかな?

 

まあ、言葉というのは、日常生活とぴったりくっついているものだから、宗教や習慣に大きく影響を受けるのは、当たり前と言えば当たり前なんですけど、もう一度宗教に話を戻すと、この神を信仰する精神、とかく人間というものは傲慢で独りよがりになる生き物を、自ら戒め、他を敬う心を取り戻し、時には弱い心に勇気を与えるもの。だから彼らは絶対的尊厳を持って神を信仰する。

 

私はキリスト教でもないし、イスラム教でもないし、どんな宗教にも属さない人種だから、そもそも宗教を語るなんぞ、おこがましい限りではあるのですけれど、(そう、キリスト教の人たちは恐れ多くて「God」という言葉すら口にしないのだ)、もしかすると、「崇拝する心」から「敬う心」が自然と生まれているのではないか、と思うわけです。

 

私たちは、道徳として教育のなかで教えられます。

他人を敬いなさい、思いやりは大事です、ってね。

もちろん宗教にもよるでしょうけれど、神を崇拝する彼らは、日常生活の中で自然とその心が生まれているのではないか、とふと思ったわけです。(あくまでワタクシの想像の範囲ですけど)

 

我々の肉体も才能も、全て神から授かったもの。

たまたま恵まれた環境にいるのも、神が与えて下さったもの。

そう考えるとね、人は謙虚さを忘れないのではないかと。

 

余談ですけど、ノーベル物理学賞受賞された青色LED発明の中村教授、すばらしい功績です。誇らしいです。

でも元勤務先の日亜化学と揉めて泥沼状態になってしまったのは、とても残念です。

どちらが、どうっていうわけではありません。お互いの言い分はありますから。

 

ただね、あんまり関係ないかもしれませんが、この「敬う心」を考えていたときにね、ふと思ったんです。

お互いが、ほんの少しだけ相手を敬うことができたなら、ここまで事態は悪くならなかったんじゃないかと。

詳しい内情は分かりませんから、何とも言えませんが・・。

 

ということで、ダラダラ思うことを綴ってみました。オシマイ。

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