毎年のことながら痛感するのですけれど、お正月番組(テレビのことです)は、まーなんてつまらないものばかりなのか、と普段ほとんど、というか全くテレビを見ることのない生活を送っているワタクシではございますが、お正月くらいはのんびりと、と思ってみても、テレビの前に座っているのが苦痛に感じるくらいつまらない、といいますか下らないものばかりで(制作者の方々には申し訳ないけれど)放送業界もこれでは先行き危うし、と「余計なお世話」的なことすら感じてしまうのであります。
ということで、テレビ番組に期待することはやめ、DVDを数本借りて立て続けに鑑賞に耽っておりました。
別に観たいものがあったわけでもなく、それとなく手に取ったものが偶然にも似通った内容であったのは、何かそこに自分が執着しているのか?と我ながら自分の潜在意識に驚いた次第。
それにしても、古い作品であれば100円で観れてしまうというのも、制作の世界の変遷の激しさの表れなのでしょうかね。。
「戦場のピアニスト」
映画の話題に疎い私ですら、そのタイトルに見覚えがあったくらいですから、おそらくご覧になった方もいらっしゃると思いますが、これはナチスドイツ軍の迫害に遭ったユダヤ人ピアニストのお話。
第二次世界大戦下でのユダヤ人迫害は、歴史上の事実として知ってはいたものの、実際に彼らの生活がそして人生がどんなものであったのか、知る由もない。
ただ「ユダヤ人だから」という理由だけでこの世に生きることを許されない。私たち単一民族の日本人には、到底理解できない。
戦場のピアニスト [DVD]/アミューズソフトエンタテインメント
「ナイロビの蜂」
これもかなり有名な映画だったと記憶しています。ケニアを舞台とした製薬会社を巡る陰謀のサスペンスものですが、先進国の利益のためだけに同じ人間でありながらアフリカ人の命がとても軽んじられている社会の背景は、ストーリーはフィクションとはいえ、そうした事実が実際にあった若しくは今もある、ということは否定できないのではないかと思うのであります。
「ルワンダの涙」
ルワンダと言えば、集団虐殺の歴史が思い出されるように、まさにその民族紛争を描いたものです。
少数派民族のツチ族がフツ族によって殺害されるわけですが、実際にその紛争時を生き延びたルワンダ人(ツチ族)も、映画製作に参加しています。そして、彼らがいなければこうした事実が映画化されることもなかったと結んでいます。
1994年。ちょうど今から20年前の事実。
ここ日本からみれば、とてつもなく遠い国のことのようでもあり、実際彼らの違いなんて我々には判別できません。どう見ても同じルワンダ人にしか見えない。
けれど、ユダヤ人迫害と同様にツチ族だからという理由だけで老若男女大人も子供も生まれたばかりの赤ちゃんも皆殺される。
我々には、想像しようもない恐怖です。
幸か不幸か、日本は単一民族で単一国家。民族紛争もなければ宗教争いもない。一つの島国で完結した文化を築き孤立させている。
思うに、民族間での紛争は、将来への生存不安、何時虐げられるか分からない故に覇権を広げることで自らの存在を守る、いわば動物界の弱肉強食にも似たものがある。
確かに、そこには文化も存在するけれど、単にお互いの文化を尊重し合うことができないという理由だけではなく、将来の生存不安から引き起こされるものである。
そう考えると、もし、市場(自由)経済が発展し、覇権を広げることで自らを守る変わりに、経済社会によって彼らの存在が守られるならば、悪夢のような争いは消えていくのではないのだろうか、とおぼろげに思うのである。
もちろん、経済が発展すればしたで、現に今あるまた別の権力争いも生まれはするものの、少なくとも「意味のない死」が止まるのではないか、と単純アメーバ的に考えてしまうのです。
そして経済社会構築の手助けができるのも、歴史的つながりのない、いわば中和的立場の日本だから可能なことがある。(と思う)
平和を尊ぶことの大切さを伝えること、平和な国日本ができる最も大きな役目ではないかと思った新年の始まりでございました。