日本人にとって、(クリスチャンは別として)クリスマスは、宗教行事というよりも単なる娯楽的なイベント行事の意味合いが強い。
もちろん、私はクリスチャンではないし、街中がクリスマスムードで盛り上がっていなければ、日常の煩雑さに紛れて忘れてしまうぐらいの感覚でしかない。
いえ、確かにね、街のイルミネーションを目にすれば心温まるし、街角から聞こえるクリスマスソングを耳にすれば、ちょっぴり幸せな気分になるし、このイベント的行事を否定しているわけでは、毛頭ございませんのよ。
一方、キリスト教民族にとっては、この日はとっても大事な行事なんですよね。それぞれの国や地域で伝統的な行事が執り行われたりします。
いつだったか、ちょうどクリスマスの日にパリに滞在したことがありまして、キリスト教のクリスマスというものを体験したことがありますが、教会では盛大なミサが行われておりました。皆で賛美歌を合唱したあと、隣にいる人同士、見ず知らずの他人でも、抱き合って喜びを分かち合っておりました。ふと、私の隣にいた婦人が、私に気づき、すっと右手を差し出してきたんです。一瞬??と思いましたが、すぐに握手を求めているのだとわかり、お互い握手で微笑み合いました。
きっと彼女は、私が東洋人と知り、自らの喜びを東洋の慣しで表現されたのでしょう。彼女のそのさりげない気遣いに、少しばかりの驚きと感動を味わった温かい思い出です。
北欧スウェーデンは、世界一移民に対して寛容な国として知られていたが、9月にシリアからの難民を全員受け入れ、希望者には永住権も付与するという声明を発表し、一段と移民に対する障壁を低くした。
移民大国スウェーデンには、従来にも増して増々多くの移民が流れ、今や急激な人口増加を呈している。
こうした姿勢は、異文化への高い寛容度を表す、豊かな国民性の象徴であることは言うまでもない。
キリスト教の国にイスラム文化が流れ込み、それも当然のものとして受け入れていた。
がしかし、移民が多く居住する南部地域では、異文化、異宗教、異民族のごちゃ混ぜ社会が形成され、時に現地住民との衝突が頻繁に起こる事態が生じ、それが増々エスカレートして、ついに暴力的な行動にまで発展してしまった。先般の人種差別に対する抗議集会では、とうとう参加者が負傷し病院に搬送される事態にまで至る。
豊かな国民は、ついに異文化への寛容度を失いつつあるのだろうか。
単一民族、単一国家、無宗教の日本人の理解を超えるものかもしれない、がしかし。
思うに、「文化」とか「伝統」は、その土地に根付いたものではあるけれど、それが社会や人々の行動を縛り付けるものではなく、なおかつ、別の場所に渡れば、誰しも自分のやりたいまま周囲を顧みず勝手にできるものでもない。
それぞれの「文化」や「伝統」はお互いに尊重されるべきものこそすれ、社会を縛るものではない。まして一方的な考えで否定できるものではない。そこに初めて異文化の共存が成立する。
スウェーデンに代表されるように、北欧の国々は比して移民に寛容であった。
異文化を受け入れる、その豊かな国民性は、我々日本人には足下にも及ばないレベルには違いない。
が、ここ数年、ノルウェーやデンマークに見られるように、次第に「反移民」を唱える政策が昇り始めたのは、単に国民が寛容さを失いつつある、という問題だけではない。
高い社会保障を謳うこれら北欧の国々にとって、十分な納税義務を果たせない彼らに保障を与えることをよしとしない、原住民のモヤモヤした燻った感情が台頭してきているのも否定できない。
現に財政を圧迫し始めているのも事実なのだから。
「神の下に全ての人は平等である」とするキリスト生誕の日を記念して、世界中の人々が、幸せに共存できる社会を願う。