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40歳の独身、ミス・マーサ。
彼女は、街角のパン屋を経営している。
このところ、週に2、3度訪れる客に、興味を抱くようになる。
擦り切れたヨレヨレの服を着ているものの、あごひげは丁寧に刈り込まれて清潔感があり、その上マナーがとてもよい。
彼はいつも、古いパンを2つ買っていった。
焼きたての新しいパンは5セント、古いのは2つで5セント。
ある時、ミス・マーサは、彼の指先に赤と茶の汚れが付いているのを目にする。
彼は芸術家なのか、ミス・マーサは推測する。
まだ脚光を浴びない貧しい芸術家。
屋根裏部屋で一人、固いパンをかじりながら、細々と絵を描く。
同情心の強いミス・マーサは、彼の貧しい買い物に、何かおいしいものを付け足してあげたい気持ちにかられる。
しかし、そんなでしゃばった行為は、かえって相手のプライドを傷つける。
ミス・マーサは、十分わきまえていた。
日に日に、彼はミス・マーサに打ち解けるようになり、買い物のたびにショーケースの前で談笑していくようになる。
ミス・マーサも、ほのかな恋心が芽生えたのか、シルクのブラウスを着たり、化粧品にこだわったり、身なりに気を配るようになっていく。
ある日、いつものように、客が店に来る。
「古いパンを2つください。」
そう注文し、ミス・マーサがパンに手を伸ばした時、外で消防車のけたたましいサイレンと鐘の音が鳴り響き、通り過ぎていった。
客はドアに駆け寄っていって外を見た。
ミス・マーサはその瞬間、あることを思いつく。
パンに深い切れ目を入れ、たっぷりのバターを塗りこんだ。そして、パンを閉じた。
客が戻ってきたときは、ちょうど紙でパンを包んでいるところだった。
そして、いつものように、たわいないおしゃべりをして、客は出て行った。
彼女は、その日ずっと、ドキドキしながら高揚感にかられていた。
もうそろそろ、ランチにあのパンを食べている頃かしら。
切り分けたパンを見て、ああ、なんと!
バター付きのパンを食べながら、私のことを考えてくれるかしら。
妄想は膨らむ。
店のドアベルが荒々しく鳴り、けたたましい物音で誰かが店に入ってきた。
ミス・マーサが店先に出ていくと、そこには見覚えのない若い男と、いつものあの客。
いつもの穏やかな様子はなく、顔を真っ赤にして髪を振り乱し、両手拳を握りしめ、ミス・マーサに向かって振り回した。
「間抜け!」
何やらドイツ語で怒鳴り散らす。そして、カウンターをバンバン叩きながら叫んだ。
「お前のせいで台無しだ!このおせっかいの老ぼれ猫!」
若い男が、なだめるように制止し、
「それくらいにしとけよ、もう充分だろ」と怒りに燃える男を外に引っ張り出す。
そして、すぐ店に戻ってきた。
「まあ、聞いてください。彼は建築製図をやってるんです。僕は同じ事務所で働いている者です。彼はこの三ヶ月間、新しい市庁舎の設計図を一生懸命描いていました。コンペ作品、つまり設計競技の作品です。昨日、インク入れを終えたところだったんです。製図者はね、初め鉛筆で下書きをして、インク入れの後で古いパンくずで鉛筆の線をこすって消すんですよ。消しゴムよりこっちの方がよく消えるんでね。彼はいつもこちらでパンを買っていましたね。でも、今日の・・・その・・・バターは、まずかった。彼の設計図はもう、切り刻んでサンドイッチにでも入れるしかないというわけで」
彼女は、店の奥に入ると、見栄えのする水玉模様のシルクのブラウスを脱ぎ、これまで着ていた地味な茶色のサージの服に着替えた。そしてお手製の化粧品を窓の外のゴミ箱に捨てた。
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これは、米国の短編小説家O・ヘンリーの作品「Witches’ Loaves」、翻訳ではそのまま「魔女のパン」と訳されていたりします。
運命のいたずらというのか、そういう意味で「魔女」という言葉が使われているのだと思うのですけど、何ともやりきれない気持ちにさせられます。
余談ですけど、設計図のインキング、昔手描きだった頃は、これ、結構難儀な作業でしたね。
ドイツの筆記具メーカーの名前をそのまま使ってロットリングなんて言ったりもしましたけど、
鉛筆の線の上をインクでなぞっていくわけです。
定規を少し浮かせないと、インクがビヤッとにじんだりして、あちゃー、ってなる。
もちろん、今の時代こんなことしてるところはどこもないですけどね。
学生時代の古き良き(?)思い出です。
んで、このストーリーに流れる悲哀感というか、やり切れなさというか、
今の時代を生きるワタクシにも、どこか共感できるものがある。
いえ、ミス・マーサと似た境遇とかそういうことではなくて、ですね、
あのヨレヨレの身なりをした客の境遇とかそういうことではなくて、ですね、
どうにもこうにも抗いようのない不運に見舞われる、そんな人生の辛辣を舐めることが、
たぶん、生きていれば、誰にでもあるんじゃないかと思うのです。
抗いようのない運命。
まさしく魔女のいたずらとしか思えないような、なんでこうなるんだろうって、
なんで?私が何か悪いことでもした?
そう思いたくなるようなこと、ありますよね。
決して悪気があったわけでもないのに、ミス・マーサの親切な心は、「結果として」両者にとって不運をもたらすものとなってしまった。
O・ヘンリー自身、横領の疑いで投獄されるなど、波乱に満ちた人生を送っている。
人生は、抗いようのない不運に出会う場面もあるけれど、それを受け入れて生きることもまた、人生なのかもしれない。
そう思うと、なんか少しラクに生きれる気がした、暑い夏の一日でありました。
遠くでセミが鳴いている。
ではまた。