人はいつか死ぬ

なんだろね、歳のせいか、このところの疲労が極限に来つつあるせいか、ふと、自分の最期はどうなるうだろう。。と縁起でもないことを、思ったりする。

くだらん事考えとらんと、はよう仕事せい、と戒めておりますけども、あんまり脳が疲れてくると思考が停止してしまって、効率悪いし。と言い訳しつつ、書いております。

ちょっと無理をすると、すぐさま体調に現れてくる自身の衰えもさることながら、毎日当たり前のように流れてくるニュースを聞くたび、いつ自分自身がその one of them になってもおかしくないくらい、突然の死が日常に溢れていることに気づく。

 

がんのように、死を宣告されて死ぬ方が良いのか、それとも何の予告もなしに逝ってしまう方がよいのか。

確かに、健康診断で精密検査してください、なんて言われたときにはドキッとするけど、「最終宣告」は幸いにしてまだないので、そのときの心境は想像もつかない。

同じく、幸いにして日本でも海外でも、身に危険を感じるほどの事件や事故に遭遇したこともないので、これまた突然の死と対峙する心境は想像もつかない。

こう見えてワタクシ、(態度はでかいが)意外と小心者でありますから、その場になると、きっと滑稽なほどに醜態をさらしてしまうのではないかと思いつつ、いや、それが人間ってもんじゃないか、と変に擁護しつつ。

 

何気に出会ったブログに目が止まり、ちょうど脳も疲れていたので、休息がてらズルズルと読み込んでしまった。正確に言うと、読み込んだのはブログではなく、そこに貼っつけてあったリンクの記事なのだが、著者が雑誌「旅行人」に寄稿した記事を紹介していた。

その記事は、著者がカイロで出会ったバックパッカーを追悼して書かれたものらしい。

バックパッカーと言っても、元気いっぱいの若者ではなくリタイアしたおじいさん。残りの人生を悠々と、世界各地飛び回って、自由に生きていた姿に心惹かれるものがあったのだけれど、深読みしてしまったのは、その姿ではなく、彼が末期ガンを告知されてからの死との向き合い方だった。

80歳にして、ナミビアの砂漠で素っ裸で写真を撮るくらいだから、もともと悠然とした性格なんだろうとは思うけど、そういうことを抜きにしても、まっすぐ、そして静かに死と向き合っている姿が、印象的だった。

 

著者によると、旅の途中でも、幾度となく危険な状況にさらされ、その度に飄々と乗り越えて過ごしてきた性格だから、きっとどんなことも受け入れるだけの肝が座っているのかもしれない。

と同時に、世界各地を飛び回り、その先々でいろんな生死観に触れ、人間とは決して特別な存在でもなく、この世に命を授かった全てのものと同じなんだということを、肌身で感じたのではないかと、ふいに、自身の経験を思い出した。

 

以前、カトマンズ郊外の寺院に訪れた時、境内の中を流れる川のほとりで、いくつも煙が上がっており、屍体が焼かれていた。そこは寺院の火葬場だったのだが、おおっぴらに、かつ人が普通に行き来する川のほとりで、もうもうと煙を上げ、焼かれていた。まるで日常的な焚き火でもするかのように。

確か、その寺院はヒンドゥ教だったと思う。

少し離れた場所から見ていても、ワタクシ、不謹慎にも気分が悪くなってしまったのだが、現地の人々にとっては、もう日常と何ら変わらないところに死があった。

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人はいつか死ぬ。

望むとも望まずとも、この世に生を受け、そして死ぬ。

どんな形であれ、その終わりがあるのなら、限られた一時一時を大事に生きたい。

死を受け入れることは、人間の最も強い心かもしれない。