見えないところにあるもの

これで、2回目。パソコンのリカバリ。

購入して、僅か1年半。

その他、修理工場に出したのは、1度や2度ではない。

こういうパソコンに出会うってのも、ある意味貴重なのかと、もう今では諦めの境地に達しておりますwww。

数ヶ月前に修理をしてもらったはずの症状が再発し、再度修理。

修理工場に出す代わりに、自宅まで来てもらった。

「これは・・・こっちに原因がある可能性が高いですね」

とハードディスクを指差す。

「念のため、基盤も交換しておきましょう」

前回の修理では、ここの部品交換してもらったんですけど・・と修理報告書を見せると、

「まあ、これも一つの原因ではあるかもしれないけど、根本的なものではないですね」

「・・・。なんで前回の修理でチェックできなかったんでしょう?」

「まあ、実際のところ、工場でどのような修理をしているのか、どういう方針でなされているのか、我々(訪問修理)にはわからないところがあります。担当者にもよるかもしれませんが、とりあえず、症状が収まればOKとしている場合もありますし」

メーカーの修理ってそんなもんかい??と、かなり落胆というかショックを受けた次第であります。

 

仕事の良し悪しは、目で見えないところに現れる。

これは、どんな業種にもあてはまる真実だと、ワタクシ思っています。

建築の世界でいえば、目に見える表面上の美しさ、豪華さではなく、使い手の心地よさを追求するとか、維持管理を考えて長持ちさせる配慮がされているとか。

現場の仕事なら、手作業という作り手の気持ちが現れる仕上がりの完成度に、その良し悪しが現れてくる。

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思うに、その本質は、相手のことを思う気持ちがあるかどうかであって、自己の満足のためでは決してない。

目に見えないところに、その本質はあるということ。

このことに、たまたまパソコンの修理という単純な作業を通して、改めて考えさせられたわけですけれども、これに通じるものを、先週の阿倍さんの談話に関連して、世界の中の日本の姿に重ねてみる。

 

まあ、談話については、お詫びの言葉が足らないだとか、曖昧だとか批判する人もいれば、未来に向けたメッセージと共感する人もいて、見方はいろいろあるようですが、その中で、ふと引っかかったコメントがあった。

百田尚樹さん(個人的にはあまり良い印象を持っていないのですけど)、談話の内容はすばらしいと。でもわざわざ、談話を出す意味があったのか、とツイートしています。

ーーーー戦後の世界平和のために、日本が努力をしてきたことは、世界中が知っている。

そうか、そうなんだ。

わざわざ、声高に叫ばなくとも、戦後の自国の再建とともに、危害を加えた各国の繁栄のために、世界最大のドナー国となり、ODAに多大の力を注いできた事実は、世界が知っている。

現地での活動は、決して恩着せがましいものではなく、地味で、知る人は知る程度、実際ワタクシも、知らないものもたくさんある(むしろ知らないものの方が多い)。

国が繁栄することが世界平和の第一歩だと、地道に世界で行動を続けてきたことを思うと、確かに、わざわざ注目集めて発言する必要もないとも思った。

 

いや、決して、もう充分だろって言っているわけではないし、お詫びをする必要もないと言っているわけでもない。

過去の事実は消えることはないし、同時に、何万回謝罪の言葉を述べたとしても、気持ちが和らぐことはあったとしても、彼らの心にある一点の曇りが晴れることはない。

これは、戦争に限らず、一度傷ついた心というのは、記憶が蘇る限り、決して癒えるものではない。

歴史の中で、それは「事実」として消し去ることはできないのだから。

 

だからこそ、未来に向けてどう動いているのか、その行動にこそ本質があるんじゃないかと。

自国の経済発展を誇示したいがためでなく、恩を着せるわけでもなく、権力を振りかざしたいためでもなく、ただひたすら、援助国の繁栄のために、黙々と動く。

表向きは目立たなくとも、ただ、相手国が豊かになることを願って。

これが、日本が世界平和を願う何よりの証じゃないかと。

 

見えないところに、その本質はある。