モンゴル日本人抑留者が残した礎

 

そうだった。

かつて、日本はこの国とも戦争をしていたのだ。

もう、70年近くも前になるのだけれど。

 

1945年8月、ソ連の侵攻の合図とともに、モンゴル軍は当時日本軍が支配していた中国側へ攻め入った。

彼らにしてみれば、満州国にいたモンゴル人同胞の「開放戦争」だった。

第二次世界大戦も末期、日本が降伏する直前のことである。

多くの日本人捕虜が、ここから鉄道でシベリアへ、また、徒歩でモンゴルへと連れて行かれた者もいた。

 

帰国開放されるまでの約2年間、捕虜たちは極寒の地で、過酷な強制労働を強いられる。

充分な食事も休養も与えられず、飢えと寒さで多くの日本人捕虜が帰国の悲願を抱えたまま命を落とした。

 

昨年、モンゴルを訪れたときに参拝した日本人墓地跡。

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慰霊碑前の円形広場壁に埋め込まれていた桜模様のタイルが、日本の風情を感じさせる。

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ここには、戦後生きて再び日本の地を踏むことを許されなかった捕虜たちの魂が宿る。

 

捕虜たちの強制労働は、炭坑の採掘だけでない。

今、ウランバートル市にある公共建築の多くが、抑留者たちの血と汗の結晶である。

今も残る国立オペラ劇場
今も残る国立オペラ劇場

 

 

このような建設作業に従事した捕虜たちはモンゴル内だけに限らず、ソ連、カザフスタン等、多くの地域に連行された日本人抑留者たちも同様に、その地域の都市建設に割り当てられた。

過酷な労働環境にも係らず、当時においても、日本人の丁寧な仕事ぶりが、現地人には評判だったようだ。

日本人の勤勉さというか生真面目さというか、何もこんな時まで・・・だが、それがいい。

 

 

歴史と向き合うとは、どういうことか。

よくわからない。

けれど、ただ、こう思う。

私は、幸いにも、平和な時代(少なくとも日本において)に生まれ、戦争の体験はない。

だから、どんなに正確かつ詳細な叙述があったとしても、それを基に、かつて日本が受けた痛みや苦しみに恨みや憎しみを抱くべきではないと思うし、反対に日本が与えた残虐行為に卑屈になる必要もないと思う。

なぜなら、私は当事者ではないから。

こういうと、何だか無責任で冷淡に聞こえるかもしれないけど、でも、どんな感情や言葉を持っても、当時の彼らの代弁ができるわけではない。

歴史とは、過去の事実であり、それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、事実を事実として受け止め、「知る」ということ。

それで充分だと思う。

 

いろんな思いはある。

がしかし、時は流れている。一つのところに留まることなく、常に新しい時を迎えている。

 

悲惨な歴史から70年近く経た今、モンゴルはソ連の崩壊とともに民主国家へと柁をきり、そして日本とも新たな交流を築いている。

それでいいのだ。

悲しい過去があるからこそ、強い絆が生まれると信じている。